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高村光太郎 「レモン哀歌」(詩集『智恵子抄』より)

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レモン哀歌

そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉のどに嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
山巓さんてんでしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう

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作者と作品について

  • 作者

高村 光太郎(たかむら こうたろう)
1883年(明治16年)~1956年(昭和31年)
東京都生まれ

  • 作品

「レモン哀歌」は、高村光太郎の詩集『智恵子抄』の頂点というべき詩です。

この詩集には、智恵子さんとの恋愛、結婚、彼女の発病と療養、没後に至る約40年間にわたって書かれた作品が収められています。(詩29篇、短歌6首、散文3篇)

「レモン哀歌」は、妻である智恵子さんが、息を引き取る瞬間をうたったもの。

智恵子さんの命日が10月5日のため、『智恵子抄』を昔から愛読している私は、この日がめぐってくるたびに、「レモン哀歌」のことを思い出します。

 

智恵子さんは精神分裂病(今でいう統合失調症)を患い、肺結核で亡くなられました。

この詩の背景には、最愛の人が心を病み、そして死に別れるという、引き裂かれるような悲しみがあります。

東京で暮らしながらも、故郷である福島県二本松のすがすがしい自然を希求して止まなかった智恵子さんの思いが、この詩に反映されているような気がします。

思えば智恵子さんも、東京と福島、芸術と生活の間で、引き裂かれるような葛藤を感じていた人でした。(智恵子さんも光太郎と同様、芸術を志す人でした)

彼女がレモンの香りに洗われたのも、ひとつは自然への希求心ゆえでしょう。

『智恵子抄』に収録されている、「智恵子の半生」という文章で、光太郎は次のように語っています。

私自身は東京に生れて東京に育つてゐるため彼女の痛切な訴を身を以て感ずる事が出来ず、彼女もいつかは此の都会の自然に馴染なじむ事だらうと思つてゐたが、彼女の斯かる新鮮な透明な自然への要求は遂に身を終るまで変らなかつた。
(中略)
その最後の日、死ぬ数時間前に私が持って行ったサンキストのレモンの一顆を手にした彼女の喜も亦この一筋につながるものであったろう。彼女はそのレモンに歯を立てて、すがしい香りと汁液とに身も心も洗われているように見えた。

「レモン哀歌」に出てくる山巓も、ふるさとのことを指しているのでしょうか?

同じ『智恵子抄』に収録されている、「樹下の二人」という詩を思い出させます。

高村光太郎 「樹下の二人」(詩集『智恵子抄』より)

 

ただ、最後に正常心を取り戻したのは、自然の象徴であるレモンに触れたという、それだけの理由ではないと思います。

智恵子さんは晩年に療養していたとき、切り絵に励み、それを光太郎に見せるのを何よりも嬉しそうにしていました。光太郎を忘れることはなかったのです。

「智恵子の半生」は、最後に彼女の切り絵について触れて、このような文章で締めくくられています。

百を以て数える枚数の彼女の作った切紙絵は、まったく彼女のゆたかな詩であり、生活記録であり、たのしい造型であり、色階和音であり、ユウモアであり、また微妙な愛憐の情の訴でもある。
(中略)
最後の日其を一まとめに自分で整理して置いたものを私に渡して、荒い呼吸の中でかすかに笑う表情をした。すっかり安心した顔であった。私の持参したレモンの香りで洗われた彼女はそれから数時間のうちに極めて静かに此の世を去った。昭和十三年十月五日の夜であった。

たとえ心を病んでいても、愛までは失われていませんでした。

彼女の自然や芸術への愛、そして光太郎への愛が、このレモンに結実したのではないでしょうか。

引き裂かれるような悲しみや葛藤の果てにある、ほとばしるようなカタルシス。

だからこそ、最後に奇跡が起きたのではないかと、思わずにはいられないのです。

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