旅上
ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。
五月の貴公子
若草の上をあるいてゐるとき、
わたしの靴は白い足あとをのこしてゆく、
ほそいすてつきの銀が草でみがかれ、
まるめてぬいだ手ぶくろが宙でおどつて居る、
ああすつぱりといつさいの憂愁をなげだして、
わたしは柔和の羊になりたい、
しつとりとした貴女あなたのくびに手をかけて、
あたらしいあやめおしろいのにほひをかいで居たい、
若くさの上をあるいてゐるとき、
わたしは五月の貴公子である。
作者と作品について
- 作者
萩原 朔太郎(はぎわら さくたろう)
1886年(明治19年)~1942年(昭和17年)
群馬県生まれ
- 作品
「旅上」は詩集『純情小曲集』(1925年)に、「五月の貴公子」は詩集『月に吠える』(1917年)に収められています。
若草もえる五月が、素直に描かれている作品ですね。
朔太郎の詩というと、メランコリックなものが多い印象があるだけに、こういった詩を読むとほっとします。
と同時に、朔太郎らしいとも思うのです。
詩集『純情小曲集』の自序で、朔太郎は次のように書いています。
「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であつて、始めて詩といふものをかいたころのなつかしい思ひ出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であつて、何となくあやめ香水の匂ひがする。(純情小曲集・自序)
「旅上」も、朔太郎にとっての少年時代の詩のひとつです。
この自序に書いてある「あやめ香水」と、『五月の貴公子』の「あやめおしろい」って、同じ匂いなのでしょうか。
視覚や聴覚に訴えかける詩は、よくあるものの、嗅覚にまで訴えかける詩は、実はそんなにないと思うのです。
朔太郎の詩は、五感を通して、感情に響く詩と言えるかもしれませんね。
『月に吠える』の序では、朔太郎は次のように述べています。
すべてのよい叙情詩には、理屈や言葉で説明することの出来ない一種の美感が伴ふ。これを詩のにほひといふ。(月に吠える・序)
「旅上」も「五月の貴公子」も、そんな「詩のにほひ」をほのかに感じさせるような作品に思えてなりません。