なぞ


なぞなぞなァに、
たくさんあって、とれないものなァに。
  青い海の青い水、
  それはすくえば青かない。

なぞなぞなァに、
なんにもなくって、とれるものなァに。
  夏の昼の小さい風、
  それは、団扇(うちわ)ですくえるよ。

蝉のおべべ


母さま、
裏の木のかげに、
蝉のおべべが
ありました。

蝉も暑くて
脱いだのよ、
脱いで、忘れて
行ったのよ。

晩になったら
さむかろに、
どこへ届けて
やりましょか。

蓮と鶏


泥のなかから
蓮が咲く。

それをするのは
蓮じゃない。

卵のなかから
(とり)が出る。

それをするのは
鶏じゃない。

それに私は
気がついた。

それも私の
せいじゃない。

このみち


このみちのさきには、
大きな森があろうよ。
ひとりぼっちの榎(えのき)よ、
このみちをゆこうよ。

このみちのさきには、
大きな海があろうよ。
蓮池(はすいけ)のかえろよ、
このみちをゆこうよ。

このみちのさきには、
大きな都があろうよ。
さびしそうな案山子(かかし)よ、
このみちを行こうよ。

このみちのさきには、
なにかなにかあろうよ。
みんなでみんなで行こうよ、
このみちをゆこうよ。



作者と作品について


  • 作者
金子 みすゞ(かねこ みすず)
1903年(明治36年)~1930年(昭和5年)
山口県生まれ

  • 作品
みすゞさんの詩を読んでいると、はっと気づかされることが多いです。

たとえば、「なぞ」という詩。
あんなに青い海を手ですくっても、掌にあるのは透明な水なんですよね。そのことを、不思議に思ったことはないでしょうか。「不思議」という詩もありますが、当たり前なことを、当たり前にしないのが、みすゞさんの詩の魅力だと思います。
それから、夏の昼の小さい風なら、団扇ですくえてしまうという、この視点にもおどろかされます。

「蝉のおべべ」の、お母さんと子どもの会話も、微笑ましいですね。
蝉の抜け殻を「おべべ」と言うなんて、たしかに着物を脱いだ後のようだと、うなづかされてしまいました。
(ちなみに、源氏物語の「空蝉」では、薄衣を脱いだ後を、蝉の抜け殻に例えています)
子どもが、晩に冷えこむのを案じて、蝉におべべを届けたいと言うのも、思いやりを感じられます。

「蓮と鶏」では、蓮が咲くのも、鶏が卵から出るのも、自分の力ではないこと、そしてそのことに気づかされるのも、自分の力ではないことをうたっています。
みすゞさんの詩を読んでいると、たくさんのことに気づかされるのですが、それも私のせいじゃなく、たくさんの不思議な力が働いているのかもしれませんね。


そして、「このみち」
ひとりぼっちの榎や、蓮池や、案山子に、「このみちをゆこうよ」と呼びかけていますが、よくよく考えてみると、どれも歩けないものばかりなんですよね……
それでもこの詩では何度も、「このみちをゆこうよ」とリフレインしています。
今は身動きがとれなくて、ひとりぼっちのものでも、「このみち」、つまり、生き方のようなものを貫いていけば、みんなの命に繋がっていくことを、この詩ではうたっているのではないかと思います。
みんなひとりだけど、ひとりじゃないという、みすゞさんからの応援歌のようですね。

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